島津義弘
島津家十八代当主。幼名・又四郎。忠平、足利義昭の偏諱を賜り義珍、のちに義弘。兵庫頭。剃髪して維新斎と号す。
島津貴久の次男。母は島津一族・入来院重聡の娘・雪窓夫人。
島津家当主の兄・義久を助け、各地を転戦武名を轟かせた。豊州家島津忠親に請われ養子となり、その戦いを助け日向攻略に貢献した。
元亀三年、日向木崎原に伊東氏を破り、天正五年には伊東氏を日向から追放。
男子のいない兄義久から家督を継ぎ、義弘は十七代目として、天正四年に伊東氏を助けて南下した豊後大友氏を日向高城の攻防に破る。
同十三年には阿蘇氏を降伏させ肥後一円を支配。同十四年には豊後に進んで大友氏を壊滅させた。また、肥後、筑後、筑前に縄張りを広げる竜造寺隆信を島原で破った。
しかし大友宗麟の訴えによって、豊臣秀吉が島津家に対して和議を勧告したが義久は聞きいれず、秀吉の島津征伐の口実となった。
天正十五年、豊臣軍は二十万の大軍をもって攻め込んで来たため、一族をもって大いに奮戦して緒戦においては勝ったもののやがて後退。
のちに降伏したが、次弟・歳久のみ一人抵抗して切腹させられ、末弟・家久も急死。長兄・義久は薩摩、義弘には大隈、長子・久保には日向を安堵となる。
文禄元年、秀吉の朝鮮出征の際には渡海し、同四年に召還され、太閤検地によって薩摩・大隈・日向のうち五十五万九千石をうけた。
慶長二年、再び朝鮮に渡り、同三年には泗川の戦いにおいて十倍以上の朝鮮軍を敗り、撤兵を阻む朝鮮水軍の李舜臣を破って制海権を確保。敵側から「鬼石蔓津」と怖れられた。
同五年の関ヶ原の戦いではやむなく西軍につき、わずか千五百の軍勢を率いて参陣したが敗れ、世に「島津の前退」と呼ばれる敵中突破を行い、堺から海路帰国して桜島に蟄居した。
その後、井伊直政・本多正信による徳川家康へのとりなしにより、同七年、赦免されて義久に本領安堵。義弘の次子・忠恒(のちの家久)への家督相続を許された。
元和五年、大隈の加治木で死去。八十四歳。
