武田信玄
甲斐・武田氏の当主。幼名・太郎勝千代。元服し晴信。大膳大夫。信濃守。
武田信虎の嫡男。天文五年の初陣で信濃・佐久郡の海口城を攻略する。
同十年、父が寵愛する弟・信繁に家督を譲る気配を察知し、不和であった父を駿河・今川家に追放して甲斐・武田氏十九代当主となった。
翌年から信濃侵攻を開始し、妹の婿である諏訪頼重を攻めて自刃させ、高遠頼継を追放した。
ついで佐久郡にも侵攻し、村上義清との上田原の戦いで敗れて大打撃を被る。
しかし翌年、義清と結んだ小笠原長時を破り立ち直り、義清の居城・砥石城を包囲。またも反撃を受けるが真田幸隆によってようやく落城させ、葛尾城を抜いて義清と長時を越後に敗走させた。
かくして義清の依頼を受けた越後・長尾景虎(上杉謙信)が川中島に出陣することになる。天文二十二年以降、永禄七年まで五度にわたり合戦を行う。とりわけ永禄四年の四回目の対戦が有名で、山本勘助の献策により上杉軍を挟み撃ちにするため別働隊一万二千を上杉軍に当たらせ、残りの兵を従えた信玄が敗走する上杉軍を壊滅しようとする。しかし動きを察知され信玄本隊に全軍を当てられ激戦となり、上杉政虎(上杉謙信)がただ一騎で突進してきて信玄と一騎打ちを行ったという。
この間、弘治元年に木曾義昌を降伏させ、飛騨や東美濃へも侵攻した。
そして信濃全土を支配下に置いた晴信は、剃髪して法性院信玄と名乗る。永禄七年以降は西上野へ進出し、北関東で謙信と対戦している。
相模・北条氏、駿河・今川氏とは三国同盟を結んでいたが、桶狭間で今川義元が討たれると今川氏斜陽をみてこれを破棄。徳川家康と盟約し駿河に侵攻して、永禄十一年に今川氏真を滅ぼした。しかし、今川氏の妻を持つ嫡子義信がこれに反発し、謀反を企てたことから幽閉して死なせている。
駿河侵攻に怒った北条氏康と対立するが、元亀二年の氏康没後に和睦して将軍・足利義昭・朝倉氏・浅井氏らと結び、織田信長に包囲網をしいた。
元亀三年、遠江・三河を狙う信玄はやがて大軍を率い西上の途につき、遠江・三方ヶ原で信長・家康連合軍を大破。しかし三河・野田城を攻略中に発病し、翌年に甲斐への帰国途中、伊奈郡駒場で病没した。五十三歳。
領国経営の面では、天文十六年、分国法「甲州法度之次第」制定し、信玄堤を築く等治山・治水や交通制度の整備、城下町の建設などの内政にも力を尽した。また、和歌や詩文の才もあり、文武両道を備えた名将であったという。
