徳川家康

徳川家康

幼名を竹千代。三歳のとき、人質として駿府・今川家に送られる途中、田原城主戸田康光に奪われ、織田信秀のもとに届けられる。信長の異母兄信広が今川勢に攻められて捕縛されると、人質交換の形で今度は駿府へ送られ、以後十二年間を過ごした。元服後今川義元の一字を与えられ、松平次郎三郎元信、ついで元康と名のる。義元の養女を正室に迎えた。
義元の上洛に先だち、信長に攻囲されていた今川の前進基地大高城に兵糧を入れ敏腕を示した。義元が桶狭間で討死すると自立し、西三河を画復し、信長と同盟を桔び、以後変わらぬ交誼を保つ。
その後名を家康と改め、三河を統一し徳川と改姓。信長と軍を合し姉川で浅井・朝倉勢を破ったが、信長からの援兵と共に三方ケ原で武田信玄に惨敗する。この危機を乗りきり、長篠設楽原で武田勝頼に痛撃をあたえた。信長の気性を知悉し、その命令には常に従い、長男松平信康の自刃を強制されたときも涙をのんだ。
武田勝頼滅亡後、三河・遠江に加えて駿河領有を認められ、御礼言上に安上へ向かいついで和泉堺を見物中、本能寺の変に遭った。その直後、伊賀越えをして危機を脱し三河へ帰国。混乱する甲斐・信濃に出兵し甲斐と南信濃を版図に加えた。
秀吉が天下取りに乗りだすと、小牧・長久手で対陣したのち臣従。小田原の陣を経て関東六ケ国へ国替えを命ぜられ、江戸を居城とした。
関ケ原の戦で勝利を収めて政権を掌握し、征夷大将軍となり江戸幕府を開く。大坂夏の陣で豊臣秀頼を滅ぼし、翌年没す。